2003 7. まちづくりと住民参加 / 日本ホスピタリテイ・マネジメント学会全国大会 2003.10

まちづくりと住民参加

(本稿は2003年10月18日、東洋大学板倉キャンパスで開催された日本ホスピタリテイ・マネジメント学会全国大会で発表したものである。)

正会員 小浪博英

1.序

 まちづくりにおける住民参加には法定手続きによるものと任意のものとがある。例えば、法定のものとしては都市計画の案、土地区画整理事業や市街地再開発事業の施行区域の案などの説明会・縦覧とそれに伴う意見書の提出・審査、ならびに各種審議会への住民代表委員の任命などがこれにあたる。一方、任意のものとしては、調査費などを活用したまちづくり研究会の開催、インターネットによる住民意見の募集、各種アンケート調査などである。法定のものは市区町村側が権力サイドとなり、なかなかホスピタリテイ議論になじまないが、ここではホストとゲストとの関係で論じてみたいと思う。任意の住民参加についての期待は大きいが、この場合、誰がホストで誰がゲストかを決めがたく、これもホスピタリテイ議論になじまない。本論ではこれらの困難は承知の上で、都市計画における住民参加問題に関してホスピタリテイの観点からの分析を試みた。

2.住民参加をめぐる建設省と環境庁の対立

 昭和50年代の半ば、大平内閣のもとで「環境影響評価法案」の審議が行われた。その時の議論で建設省と環境庁が対立した中心的テーマを整理すると次のようになる。

(1)都市計画のアセス手続きの主管官庁を建設省とするか環境庁とするか。

(2)都市計画のアセスメントを、計画決定段階と事業実施段階のどちらでやるか。あるいは両

   方でやるか。また、計画決定段階でやるとしたら、事業実施者が未決定の場合どうするか。更に、両方やるとした場合、事業実施段階でノーとなると計画決定からノーの決定までの間の建築制限等に対する損失補償の問題が発生しないか。

(3)そもそも都市計画は、国民に健全で文化的生活を享受してもらう目的で実施されており、環境問題はその中に含まれているので、都市計画を環境アセスの対象とすることはおかしいのではないか。むしろ、環境問題のみならず、都市計画という広い視野から環境問題を扱うことの方が正当ではないか。

(4)住民に対する縦覧を何回とし、1回ごとの縦覧期間を何週間とするか。

 これらに共通の点は、まちづくりの主体を何処に置くかの観点であろう。つまり、(1)の主管官庁については、住民参加を標榜する環境影響評価をまちづくり全体の話題の中で実施するか、または、環境問題に的を絞って議論するかの違いであり、(2)の実施時期については、最終的に利害が関係する住民の立場を無視した単なる技術論に過ぎず、住民からみればいつ実施するかはどうでも良いことであって、その都市計画で環境上の問題はあるのか無いのかということである。(3)については、昭和40年代後半のいわゆる公害国会で各種環境基準が制定されたので、都市計画手続きの中においてもこれに対処すべく独自の環境影響評価手法を導入することが通達された。(4)の縦覧回数については、回数の問題ではなく、いかにして住民に内容を理解してもらい、正しく判断してもらうかということである。ここで特に対立したのは、我が国の都市計画決定プロセスは、2週間の縦覧1回だけで済ませているが、これが十分かどうかということであった。もちろん縦覧の結果意見が出て、都市計画の案を変更する場合は縦覧をやり直すのであるから、「1回」だけということではないのであるが、アメリカなどでは当初から複数回縦覧する制度が定着しており、これを我が国も導入すべきということである。

 何れも住民参加が不十分であるとする環境庁と、十分行っているとする建設省との対立の図式であった。以下、都市計画における住民参加問題を、ホスピタリテイの観点から言及する。

3.都市計画の住民参加におけるホスピタリテ

 ホスピタリテイの観点からすれば、都市計画の場合のホストとゲストをどのようにとらえるかという問題がある。本来ホストとは、「第三者が希望するある目的のために力を貸す」役割であり、都市計画の案件にこれを当てはめれば、住民が希望する「より良いまちづくり」のため、あるいは地域の「環境をまもる」ために力を貸す立場にあるのは、市区町村役場であり、コンサルタントであり、マスコミであろう。前節の主管官庁に関する議論では、これらホスト役の監督者を建設省とするか環境庁とするかの議論であり、そもそもホストの監督者とは何かという議論を誘発する。本来、人間の自由な意思に基づく行為であればその責任は個人に属するべきであるが、都市計画の場合は法律に基づきある一定のルールに基づいて行う行為であるから、ホストが法律違反などをしないように監督するという趣旨であろうから、ホスピタリテイの概念は当てはまりにくいのかもしれない。しかも、当該案件は必ずしも住民の発案ではなく、道路建設、河川整備、都市防災などの広域的要請から発生している場合がある。このような場合の市区町村は、むしろゲスト的立場をも含むと考えられる。換言すれば、「広域の人々が必要としている何らかの目的について、地域の住民がどう応えるか」ということができ、市区町村は広域の人々の代弁者と見なすことができる。こうなると、ホスト役は地域住民であると考えられる。

 このように、ホストとゲストの関係が不明瞭な場合、ホスピタリテイという議論が不毛なのかもしれないが、それでは世の中が収まらないこととなるので、都市計画の案件の種類別にホストとゲストの関係を考察することとする。

(1)市区町村がホスト側と考えられる場合

 市区町村がホストとなって地域住民がゲストとなるためには、地域住民自らが何らかの問題意識とそれを解決するための方策を考え、それを市区町村に提案することが必要となる。このような状況下において市区町村は初めて力を貸すホストとなれる。これが実際の行政ではいわゆる「陳情」とされるのであって、多くの場合不採択となってしまう。ここで考えなければならいことは、陳情のような行政手続きに基づく場合のホスピタリテイは存在するかどうかである。陳情は事前に情報が伝わるので、その相手も内容も「予期できる来客」であり、市区町村側では事前の対応策の検討が可能であるので、通常の業務として淡々と処理していくこととなる。いわゆる、マニュアル処理である。これではホスピタリテイの入り込む余地はない。

 ホスピタリテイ精神が必要とされるのは、住民の一部から市区町村の担当者に最初の相談が持ちかけられた時であろう。この場合、電話、投書、メール、面談、雑談など多くの形態が考えられるが、どのような形態であれ担当者がホストとしての役割を認識することが大切である。この場合は「不意の来客」に対する対応である。

 以上を整理すると、市区町村がホストと考えられる場合の望ましい前提条件は、住民側が十分な情報と議論を経て、自らの考えを地域での相当数のコンセンサスのもとに提案できるレベルであることと、市区町村側が、既存の制度に基づかない「不意の来客」に対する受け入れ姿勢があることである。このような状態になった時、住民をゲスト、市区町村をホストとする望ましい関係が構築できる。このような案件は、排水の改善、小公園の新設、局部的道路の改修、歩道の新設などの小さな案件が多く、住民の日常の視野が届く範囲に限られるであろう。

(2)住民がホスト側と考えられる場合

 一方、都市計画道路の新設、区画整理を実施する区域の決定、鉄道の高架化の決定などは、そのもの自体が住民から提案されることは少なく、通過交通を排除してほしい、地区内道路の隅切りを作ってほしい、排水を改善してほしい、歩行者の安全を考えてほしいなどと、直接的な表現で住民サイドから要望が出されることが多い。要望を聞いている段階は市区町村がホストであるが、それを行政で斟酌して、結果として区画整理の提案などを行うと、途端に市区町村はゲスト的立場となる。ただし、住民サイドからは「予期できる来客」であり、対応について準備することが可能である。この予期できる来客が望ましい客か望まれざる客かは案件により異なる。本来、ホスピタリテイという表現はこのような場合にふさわしくないかもしれないが、その本質を議論するためにあえて例示的に示す。

 先ずここで考えるべきことは、ホスト側が意見を一にしない複数の場合である。観光地において良く見られるパターンであり珍しいことではないが、うまく案件が成立する条件としては、ゲスト側である市区町村が日頃の行いを通じて住民の信頼を得ていること、ホスト側である住民サイドに意見をまとめる良きリーダーが存在すること、お互いの理解を深めるための十分な時間と情報があることであろう。次に、市区町村はゲスト側とはいえ背後に法的権力を有することである。片方に権力が付与されている場合のホストとゲストの関係はどうなるのであろうか。金銭に代わる法的同意をちらつかせての来客では、好ましいホスピタリテイを期待することは困難であろう。つまり、市区町村側が、権力を捨てて住民側に接してこそ望ましい関係が構築できるのである。換言すれば、「規則で・・・」、「前例が・・・」、「手続きに従って・・・」、「聞いていない。」などの表現を慎んでこそ案件が成立する可能性を生むこととなる。この種の案件は往々にして反対派の組織的抵抗を受けることが多いが、そこには市区町村側におけるホスピタリテイ精神への理解の不足を指摘することができる。

 また、コンサルタントとマスコミの役割であるが、マスコミはあくまでも中立であるべきで、憶測の混ざった思いこみを記事にすべきではなく、むしろ住民に対してその判断材料を提供すべきである。コンサルタントは専門家であるので、マスコミ同様中立の立場で専門的知識を市区町村側にも住民側にも提供すべきで、同時に、市区町村側も住民側もコンサルタントを業者扱いしてはいけない。業者としか思えないコンサルタントは事前に排除すべきである。地元に精通したコンサルタントの存在は、時として長老の役割を果たすことさえ見受けられる。

 以上と関連して、第2節(4)で述べた縦覧の回数であるが、我が国においては古くから根回しの文化があり、また、意見が最後まで割れた場合は長老の意見に従う習慣であった。結果として反対派は棄権し、満場一致で案件が成立するのが永年の日本の文化であり、これによって地縁、血縁社会を守るとともに、いたずらに敵対したりしこりを残したりしないで、わだかまりを水に流すため酒を酌み交わす文化もあった。いたずらに縦覧回数を増やすということは金利を無駄に払うこととなるばかりか、権力をかさにきて「知らなかったとは言わせない」思想であり、我が国の都市計画にはなじまないと言わざるを得ない。根回しの陰で案件が多少修正(骨抜き)されても、全員一致のもとで一歩ずつ確実に前進することが我が国の文化なのである。

(3)任意のまちづくり研究会

 近年、NPO法人を中心として任意のまちづくり研究会等が全国的に増加している。これは明らかに一歩前進した住民参加の形態と考えられ、歓迎すべきであるが、前節までのホスピタリテイ議論に至る前の段階である。

 基本的には(1)に述べた市区町村がホストになる場合に繋がっていくものであって、身の回りの環境整備が中心的課題となる。その成立のきっかけは、市区町村の誘導によるもの、地区住民の一部のリーダーシップによるもの、コンサルタントの働きかけによるもの、事故や災害による地区住民の盛り上がりによるものなどがある。市区町村の誘導によるものの中には例外的に大規模な都市計画に関するものもあり、この場合は住民サイドが市区町村の提案にどれだけ協力するかという点でホスト的役割を演じることもある。しかし、多くの場合市区町村側が権力サイドにあり、それをちらつかせてしまうため、ホスピタリテイ精神は生じてこない。

4.都市計画における住民参加の条件

 以上により、都市計画における住民参加を円滑にするための、ホスピタリテイ・マネジメントの観点からのいくつかの条件が明らかとなった。

(1)都市計画の場合は案件により市区町村がホスト側にもゲスト側にもなりうるので、日頃の相互信頼関係の成立が必要である。

(2)市区町村サイドの担当者は、不意の来客、つまり初めて話を聞いた場合の対応を間違えないこと。

(3)住民サイドは日頃からコミュニテイを醸成し、良きリーダーを育てておくこと。

(4)市区町村と住民とはあくまでも対等であり、市区町村側は権力をかさにきた物言いを避けること。

(5)基本的には市区町村側にも住民側にも事前の説明会等で十分意見を取り交わし、ホスピタリテイ精神に則った相互の妥協点を見つける努力をする意思があること。そのためには(1)に述べた相互信頼が必要であることは言うまでもない。

 ホスピタリテイの概念は多分に精神文化の成熟度に関するものである。一部には接客業全体をホスピタリテイ産業と呼ぶこともあるが、そもそもホスピタリテイと産業とが単純に結びつくものではなく、ホスピタリテイはあくまでも産業を振興させるための精神的心がけと考えることが妥当であろう。本論でも、一見結びつきそうでない都市計画とホスピタリテイとの関係を論じてきたが、ホスピタイテイが他人を暖かく受け入れるための精神的文化と考えれば特におかしくはない。

 また、本論の中で「予期できる来客」と「不意の来客」という記述をしたが、これについては十分言及できなかった。ホスピタリテイの観点から両者に区別があるかどうかについて今後検討したい。

 最後に、ホスピタリテイが広く論じられ、あらゆる分野での人間関係が円滑になり、無駄な争いを生じさせないことを期待する。