2003 1. 国土計画はいま何をなすべきか/ 人と国土 1月号

百家争論(「人と国土」2003年1月号に掲載されたものです。)

国土計画はいま何をなすべきか

東洋大学大学院国際地域学研究科教授

東洋大学地域活性化研究所長

小 浪 博 英(工博)

はじめに

 大学で国土計画を教え始めてから既に5年。国土計画はこれからどうしたらいいのかを考える毎日である。

 そもそも領土拡大と徴税のためには道路網の整備が必要であったであろうし、都市らしき集合体ができれば水を引くことが必要になったであろう。また、肥沃な土地は低地が多く、洪水を防ぎたいと考えるのもごく当然である。更に人が集まれば食糧増産のための耕地拡大も必要であろうし、結局は現在の地域開発と何ら変わらないことが行われることになる。現在との違いがあるとすれば、現在の世の中には有り余るほどのデータや情報に加えて優れた技術が存在することであろう。

 一昨年、フランスのリヨンで開催された国際会議の帰途、イタリアのミラノ、ローマを旅する機会を得た。そこにはローマ時代の遺跡が随所にあり、特に大浴場跡を訪ねた時は現代の一極集中の弊害を思い出させるものがあったといえば言い過ぎであろうか。それは、北アフリカなどの新たな領地から得た莫大な富により、一部の都市民が放蕩の限りを尽くしていたのではなかろうかと思わせるものであった。翻って我が国土をみる時、都市と地方との関係は果たして望ましい方向にいっているのであろうか。私には都市は都市として、地方は地方としてそれぞれに問題を抱えて呻吟しているように映る。大都市では依然として居住環境への不満、交通混雑、失業者やホームレスの増大、子育てや介護の不便などが鬱積し、地方では人口の流出、居住者の高齢化、森林や田畑の荒廃などが喫緊の課題となっている。

国土計画の変質

 国土計画は、発展途上においては治山・治水、交通網整備、発電、大規模開発など威勢の良いことを整然と記述することにより成立するが、これらの整備が一定の水準に達してしまうと、これら社会的インフラに対する国民の興味が薄れてしまい、時として国土計画の必要性さえ忘れがちになってしまう。また、国土計画という大きな土俵の上では、各地域の特性に応じたきめの細かい分析と記述が不十分になりがちで、民意を尽くせないという一面もある。つまり、成熟社会における国土計画は従来のインフラ整備中心のものではなく、整備済みインフラの活用や都市と地方の新しい関わりを指し示すようなものに代わっていく必要がある。以下思いつくままに整備済みインフラの活用方策と都市と地方の関わりについて記述してみる。

整備済みインフラの一層の活用

 我が国には欧米と比べて遅れているとはいうものの、約7000キロメートルの高速道路、約2000キロメートルの新幹線、約60のジェット機就航飛行場、約9万キロメートルの整備済み国・都道府県道、約1万5千キロメートルの電化済み鉄道、約700キロメートルの地下鉄、12の大型コンテナ船対応国際港湾などがある。都市整備の面でも約30万ヘクタールの区画整理済地を始め、過半の市街地は一応の居住環境水準に達している。もちろんこれらが未だ不十分であることはいうまでもなく、引き続き整備を進める必要があることは国民世論調査の結果などを見れば明らかである。にもかかわらず何故か世の中は無駄な公共施設の整備を中止せよとの大合唱で、本質を見失っているとしか思われない。その原因は整備済みインフラが国民の目で見て十分に活用されていないのではないかという疑念に基づくものではないかと考えられる。例えば、せっかく高速道路を建設しても料金が高くて地元で十分に活用できない、飛行場は出来たけど羽田空港の制約のため東京便が少ない、鉄道は改良されても使いやすいダイヤ編成になっていない、道路は整備されたが依然として速度制限がきつくて期待通りの時間短縮効果が得られない、区画整理は済んだものの思い通りの上物が立地しない、などであろうか。つまり、インフラは整備されても自分達の生活にどのように役立つのかが不明瞭であり、各種規制により思い通りの活用が出来ないことがインフラ整備に対する国民の不満を増長していると思われる。このような状況を打開するため、思い切ったインフラ活用策を考える時期ではないだろうか。そのいくつかを思いつくままに例示する。

思いつきと若干の提案

・国道沿いにある「道の駅」は既に400箇所近くが登録されており、これなどは道路というインフラに対して付加価値を高める好例である。9万キロの整備済み国・都道府県道があるのであるから、10キロおきに9000箇所くらい欲しいものである。

・鉄道については関連事業としてのターミナルデパートや宅地供給などがなされてきたが、鉄道本業の他に手を出すことを好まない風潮が一時あったために、会社毎の格差が大きい。本来であれば独占的に地域交通の背骨を構成できているのであるから、福祉からレジャーまで意のままに付加価値を高めることが可能であるはずなのに、必ずしもそうはなっていない。

・港湾は海に面しており、そのロマンを活かせばいかようにも人を集めることが出来そうだが、いくつかのポートルネッサンスが成功しているだけで、港湾そのものの付加価値の向上までには至っていない。空港も同様であり、深夜に羽田に行ってみても何もないことに気がつく。空港や港湾には24時間営業精神があっても良さそうな気がする。

・区画整理は土地権利者の並々ならぬ協力と理解のもとに成立しており、単なる宅地開発とは異なるので、その保留地が売れない責任を地主に着せることなどは言語道断といわざるを得ない。区画整理全体を社会的インフラと考えて、売れない保留地があればその計画をレビューして反省材料にすることは必然であるが、結果としては公的に買い上げるか一時的に公的保有にして周辺の付加価値が高まるような運用をすることが必要である。これは公共施設の整備を伴う市街地再開発についても同様であり、保留床が売れない地区については同様に措置すべきである。

・一般道路の改良済み区間はほぼ例外なく制限速度に不満があるのではないだろうか。事故の増加が気になるところではあるが、モデル的に試験区間で制限を緩和する実験をする必要がある。運転手にも事故を起こせば制限がきつくなることを知ってもらう必要がある。これにより高速道路が不要となり、運転マナーが向上すれば一石三鳥ではないだろうか。

・河川の高水敷は十分活用されているだろうか。一部が公園や駐車場に利用されていることは承知しているが、もっと近隣住民のアイデイアを導入できないものであろうか。洪水を承知の上で菜園に貸すのも良いだろうし、花壇を作るのも面白いかもしれない。もし日本の河が全部花で埋められたら素晴らしいと思うが、これは無理そうだ。

・下水道付置光ファイバーはどうなっているのであろうか。高速通信のために現在はCATVネットなどが使われているが、全ての下水道が光ファイバーを内蔵してプロバイダーに接続されていたならば、下水道の付加価値を高めるとともに空中を荒らす電線類を減らすことができるのではないかと思うのだが。

 以上、そんなことは国土計画の範疇ではないといわれるかもしれない。しかし、一旦作った社会資本を有効に活用する施策はやはり国土計画の一環として捉えるべきではないかと考えている。それは微にいり細にわたるかもしれないが、それを国民的に考えて、良いものについて政策的に助成・支援することはとりもなおさず経済の活性化をもたらし、ひいては次なる投資余力となるのである。また、従来の公物管理の慣例に縛られず、公的な社会資本を柔軟な頭脳で使いこなすための規制緩和も必要かもしれない。第3セクターにより管理されている公園の遊具が5時で閉店してしまい、夕涼みに使えないなどはもってのほかである。

都市は自己増殖的に成長して新しい産業を生み出す

 国土計画の重要な部分として「国土の均衡ある発展」と言うことが永年言われ続けてきた。この「均衡ある」とはどういうことであろうか。拙著「土木計画」(彰国社、1999年、共著)にも書いたことではあるが、10万都市と30万都市とは産業支持力が大きく異なり、前者はせめて専門学校くらいしか成立し得ないが、後者では4年制大学が成立するのである。それは都市の持つ産業創出力であり、都市化の原動力である。都市化が進展しなければ新しい産業は創出されないのである。その意味からすれば、都市というのは人口と産業の集積により自己増殖的に新たな産業を生むのであるから、農山漁村とは比較にならない高付加価値を生み出すことが可能なのである。一方、農山漁村においては自己増殖的な集積は作りようがなく、むしろ生産性の向上のために、機械化と人員の削減さえ必要となってくる。

国土の均衡ある発展とは何か

 都市と農山漁村との関係は国土の均衡ある発展とは全く別次元の、都市と農山漁村の間における物資や情報や人の交流から考えるべきものである。武蔵野市長の土屋氏が都市計画家協会の勉強会で「都市は農山漁村から物や水をもらっているので、それは何らかの形でお返しすべきである。」といわれていたが、まさしくその通りだと思われる。問題はその返し方である。逆に、農山漁村は都市から発信される多くの知識や情報から利益を得ているのである。例えばバイオの研究や農機具の開発の多くは都市でなされ、それが実業に結びつくのである。都市がなければ農山漁村の発展も遅れてしまうのである。農山漁村が都市を育み、都市が農山漁村を底上げしているのである。それがいつの頃よりか、過度な都市化により農山漁村が疲弊するかのようにいわれてきたが、それはとんでもない考え違いで、社会全体の高度化の中で個々の農山漁村が如何にあるべきかの議論が無さすぎたのである。限られた国土の中で一層の産業の高度化を求めれば、必然的に人口は都市に集まり、対極として農山漁村の人口は減少する。その中で農山漁村を如何に生産性の高い地域社会として存続させるか、あるいはそれが困難な地域においては如何にして最小限の摩擦の中で変質させていくかの議論である。自立できる地域にはそれなりの施策を用意し、それが困難な地域においては都市からの所得移転による維持管理の道を探るなど、新たな考え方に基づく国土管理が必要となっている。

都市から農山漁村への出稼ぎのすすめと社会保障制度

 1970年代に提唱されたセカンドスクールは都市の小学生を農山漁村で一定期間教育しようとするものであり、その流れは今でも都市と農山漁村との間の交流協定などの形で拡大の方向にあるが、これが国民的行事にはなってはいない。ふるさと小包などはかなり盛んになっているとの印象であるが、都市住民にとっての満足感に若干欠けるきらいがある。価格が思ったほど安くないのと単品での選択ができないからである。体験農業なども広まってはいるが、若者の職業選択における選択肢とするまでには至っていない。社会保障制度や将来性が見えないからである。せめて2~3年の臨時就業制度があっても良さそうに感じられるが、そのためにはマニュアルが必要になるのかもしれないし、自然相手の仕事であるから、そう簡単にマニュアル化できるものでもない。

 都市と農山漁村の新たな関係を構築するためには、現在進められている各種の経験に基づいて、更に職業性、観光性を強調する必要がある。都市に出稼ぎ労働者が来るように、農山魚村に都市からの出稼ぎ労働者が行けばよいのであり、そのための社会保障システムが必要なのである。また、非日常性を求める都市住民が、一時の安らぎを農山漁村に求めても良いのである。従来のマスツーリズムではなく、個人がフッと携帯電話やインターネットで探し当てて立ち寄っても良いのである。それが若い時の林間学校の地であったり、出稼ぎ労働の地であったり、フリーターをしていた土地であっても良い。とにかく人と人との繋がりを大切にする農山漁村と都市との関係を構築すべきである。せっかく都市住民が地方に土地を求めて移住しても、いつになっても外来者扱いをされる農山漁村の古い慣習も改めるべきかもしれない。都市に出てくれば昨日来ても今日から市民扱いがなされていることに農山漁村も気がつくべきである。これは法律等による農家の定義によるのかもしれない。それでは都市の農山漁村の本格的交流が進まないのである。

農林漁業の少ない現金収入

 歴代の政府は農山漁村の振興のために実に多くの施策を講じてきた。古くは農村工業導入法に始まり最近では特定農地貸付法や食料・農業・農村基本法などがある。にもかかわらず第1次産業人口はいつのまにか数%となり、国としての食料の自給には遠く手が届かない。何故農業がこうなってしまったのか、私の素人考えを述べてみる。

 先ず、そもそも農家が兼業に走り、ついには農業を継がなくなってしまったのは何故かを考えると、農家の家計のことを論じないわけにはいかない。一般には農業が現金収入の少ないつらい仕事で結婚にも支障があるからといわれてきたが、私はそうは思わない。現実に、埼玉県の農協青年部と会合をもった時、彼らは生き生きとして農業に誇りを持ち、頭を使えばなかなか優れた職業であるといっていたのを記憶している。

農家の息子は学校に行かなくてもいいという昔の風潮は崩れ去り、農家の息子でも都会の息子と並んで高校や大学へ行くのはあたりまえの現在であれば、現金収入の少ない農家に対して何らかの特別な奨学金があっても良さそうであるが、それは残念ながら農林水産行政の範疇ではなかったのである。ここで仮の計算をしてみる。米の値段が10キロ3000円と仮定すると、1000㎡の田で少なくとも400キロの収穫は見込めるので12万円である。1ヘクタールで120万円。つまり米だけで子供を大学へゆかしたり、家族で観光旅行をしたりするために必要な現金収入を一人あたり平均国民所得なみの約400万円と考えると、少なくとも3ヘクタール以上の田がないとできないということになる。一方、全国で約500万ヘクタールの耕地を3ヘクタールで割ると農業人口は約170万人、数十万世帯で良いという逆算ができる。これは全世帯のわずか1.5%程度である。実際には多くの畑と北海道などの田としては使えない耕地が含まれているので更に少なくなる。つまり、日本の農家が子供の教育に必要な現金収入を得ようと思えば兼業に走らざるを得ず、結果として農業が若者にとって魅力のない仕事になってしまったのであろう。専業農家が十分な現金収入を確保できるようにするためには、一戸あたり平均耕地面積を拡大するしかないのであるが、奨学金にしても耕地面積の拡大にしても、そのための強力な施策が講じられた形跡はない。山村や漁村でも同様の現象が起こっているのではないだろうか。

おわりに

 国土計画を5年間大学で教えて、その間に疑問に思ったことや思いついたことを、そのまま書き記してきた。もとより知識の不足のみならず、一部に私の誤解があるかもしれないことは承知しているが、読者諸兄のご叱責を賜りながら、更に考えを深めることができればと願って筆を執った。

筆者紹介

小浪 博英(こなみ ひろひで)

 1942年、東京都生まれ。東京大学工学部卒。国土庁総合交通課長、建設省土木研究所研究調整官、フィリピン大学客員教授などを経て現職。国づくり、地域づくり、まちづくりなど、何かをつくり活性化させることを専門としている。