都市デザインの多面的解析
Polyphasic Analysis on Urban Design
小 浪 博 英
Hirohide Konami
This is a revised paper of the original paper “Urban Design”, Kokudoseisaku, No. 11, 2001
and appeared on “Journal of Regional Development Studies”
Toyo University, Vol. 5, March 2002.
Summary
Urban design was discussed by Lewis Mumford in 1961, Jonathan Barnett in 1982 and some others. Mumford described the historical change of urban design and Barnett proposed the necessity of professional urban designers.
This analysis tried to figure out the fundamental aspects of urban design from three phases such as total balance of urban design, partial beauty of cities and the maintenance of urban beauty by residents. The final topic may not be the part of professional urban design but should be included in the discussion because the urban design or urban landscape is greatly influenced by the effort of residents such as hanging flower pots, cleaning up the streets, keeping clean the building wall, maintenance of beautiful hedge, covering the roof by green, and etc.
Total urban design would be performed by long term strategy, mid term strategy and short term strategy. The long term strategy consists of the construction of urban streets, urban green and urban parks, well planned land use and buildings, the harmony with geographical conditions, creation of beautiful skylines and elimination of electric wires. The mid term strategy consists of partial renewal of down town and railway station areas, furnishing of pedestrian ways, street trees and street lights, keeping clean the water fronts, good maintenance of green and parks, brush up of residential areas and the introduction of urban art and monuments. Short term strategy consists of the good maintenance of hedge, wall ,roof, signs and garbage.
It is the essential of urban design to educate the citizens to be aware of the importance of urban design.
1 はじめに
都市の美しさについては日常の会話においても頻繁に語られるところであるが、一般的にはゴミがない、緑が多い、道路が整っている、建物あるいは建物群が美しいということで評価されている。一方、文献をみてみると、ルイス・マンフォードの「明日の都市・歴史の都市」1)の中では古代エジプトから1960年代までのデザインが、コメント付きの写真により紹介されている。そのコメントは「緑の田舎町」、「遅蒔きのバロック」、「標準化された混乱」、「純化と退化」、「保存と更新」、「市民的蘇生」など、読者の興味がそそられるものが多い。著者は都市そのものを歴史の表現として捉えようとしたものと考えられる。ジョナサン・バーネットの「新しい都市デザイン」2)では、職能を都市計画家、都市デザイナー、建築家に分類し、都市計画家は主として需要予測に基づき土地利用計画などの適切な資源の配分を考え、建築家は周辺に配慮しつつも、基本的には単体としての建物のデザインをする人達であるとし、そのどちらでもない都市デザイナーが職能として必要であると説いている。特に、周辺と調和しない巨大な建築物を非難している意図が伺われる。安藤直見の「ヨーロッパ広場紀行」3)はフランスやイタリアで中世に作られた多くの広場を対象として、広場とその周辺を歴史的、ビスタ的観点から克明に解析している。
我が国の都市デザインは、古い街並みがあまり変化しないで残ったもの、戦災や震災により抜本的に作り直されたもの、都市化の進展に合わせて区画整理や再開発を進めたもの、という3種類に分類して考えられる。東京などはこの3番目にあたるものであるが、そこには全体的な都市デザインが存在したとは誰も思わないであろう。2番目に属する福井や名古屋は道路網のデザインを読みとることは出来るものの、ジョナサン・バーネットがいう都市デザイナーが介在していたとは思われない。
本論文はこれらの経緯を踏まえて、都市のデザインを根本からもう一度整理してみようとしたものであり、その多くは今後の議論に待たなければならないが、そのための素材を提供しようとしたものである。
なお、本稿は「国土政策」2001年11月号に掲載された拙著「都市のデザイン」を見直し、追加して作成したものである。
2 美しさの概念
人の美しさに「全身の均整」、「部分的際立ち」、「心の美しさ」などがあるように、都市についても「全体としての美しさ」、「部分的美しさ」、「維持管理により創出される美しさ」などに区分できる。また、「デザイン」と「美しさ」についても区分すべきかもしれない。デザインとは、何かを特別にイメージして、それを都市計画の図書や提案書に書き表すことであるが、美しさとはその結果の評価である。しかし、ここではその両者を区別しても、それは事象を時系列的に仕分けることでしかないので、同一視したまま議論を進めたいと思う。
表1 人の美しさと都市の美しさの対比
人の美しさ | 都 市 の 美 し さ |
「全身の均整」 | 「全体としての美しさ」バランスの取れた全市的道路網適切に配置された公園・緑地計画された土地利用と建物配置自然地形との調和スカイラインの調和電線類の地中化 |
「部分的際立ち」 | 「部分的美しさ」駅前、都心部などの美しさ歩道・街路樹・照明などの美しさ河川・水面等の美しさ美しい公園・緑地住宅地の美しさ優れたモニュメント |
「心の美しさ」 | 「維持管理により創出される美しさ」生垣、外溝などの美しさ外壁・屋根などの調和と美しさ調和の取れた屋外広告物ごみのない美しさ |
いま、一般的に「都市のデザイン」といった場合、これらの受け止め方は人によって異なっていると考えられる。また、「ランドスケープ」といった場合も同様に考え方が混乱していると思われる。どちらの場合も上記3区分を曖昧としたまま議論されるケースが多い。「都市環境デザイン会議」などの議論は、どちらかといえば部分的美しさの議論が多いと思われ、本質的な都市デザインとは若干かけ離れていると考えられる。本稿では都市デザインを上記の3段階に分けて考察してみようと思う。
3 全体としての都市の美しさ
よく聞かれる質問で「どこの町が一番美しいか」という言葉がある。しかしながら、まちというものが面的な広がりを持ち、しかも、歴史的、地形的に多種多様であるため、町全体をとらえて美しいとか汚いとかの表現をすることが極めて難しいことを考えると、これは一概に返答できる性質の問題ではないことがわかる。強いて言えば、人工的に作られた筑波研究学園都市、キャンベラやブラジリアが美しいかどうかは議論できるかもしれないが、それとてそこに立地する建物や街路樹が町の美しさに大きく影響することとなり、これは、まちの美しさが年々変化することを意味している。従って、冒頭の質問には答えられないこととなるのであるが、一般的には次のような事項が町の全体としての美しさをかもし出しているということができよう。
(1) バランスの取れた全市的道路網
道路はまちを形成する骨格であり、街区を仕切る区分帯である。そのため、都市のデザインと道路網のデザインとは相互に深い関連があり、古くから「格子状パターン」、「放射環状パターン」、「リニアーパターン」、「クラスターパターン」などが提案されている。実際にはこれらが複合的に組み合わされることが多く、長い年月の間に形成された格子状の都心部と放射環状型の郊外部は大都市に多く見られるところである。これらはデザインであるが、美しさについてはどうであろうか。
美しさは道路の幅員が大きな影響を及ぼしている。わが国の道路では主要幹線が幅員100m、50m、40m、30m、25mなどの規格で整備されている。私は経験的に当該都市の将来人口がこの幅員に一致することが望ましいと考えている。実際、100万都市の30メートル道路はその大半が交通混雑を招いており、空間が手狭であることから必ずしも美しいとは言いがたいが、30万都市の30メートル道路はその殆どが美しい。それは歩道をゆったりとって緑化する余裕ができるからである。このような美しい幹線道路によって前記の美しいパターンが実現されたとき、それは全市的な美しさをかもし出すものと考えられる。
また、幹線道路を意図的に曲線にする例が見られるが、私は賛成できない。人類の長い歴史の中で、幹線道路を意図的に曲げた例はどれほどあるだろうか。現代人の遊びに思われてならない。道路が曲がることにより視界は遮られ、来訪者は方角を失い、下水管は片減りをし、地下鉄は速度の低下を強制され、更には曲線の施工に多額の費用を浪費することとなる。数百年に及ぶ長い将来を考えたとき、その汎用性から幹線道路はなるべく曲げない方が良いと考えられる。
(2) 適切に配置された公園・緑地
街路樹と並んで都市の美しさを演出するものは緑であり、その核となるのが公園・緑地である。日比谷公園や神宮の森は東京の緑の核となっており、東京タワーや飛行機から見た東京に緑が多いなと思わせる原動力となっている。従って、公園・緑地の配置は都市のデザインの枢要な部分を占めており、その配置を道路網と調和を取りながら定める必要がある。また、神社・仏閣や皇居のような緑空間との調和も大切であり、生産緑地などの農耕地も関連してくる。これらの全体計画は「緑のマスタープラン」として多くの市町村で既に策定されている。しかしながら、その多くは平面上のネットワーク論に力点が置かれており、周辺建物や自然地形との調和に対するきめ細かな計画とはなっていない。今後においては、公園・緑地における植栽の種類や高さが周辺建物の外壁や高さと調和しており、更に、高所からの眺望に配慮されたものとなっていくことが必要である。
(3) 計画された土地利用と建築規制
土地利用や建築規制は都市のイメージを形成する重要な要素である。仮に道路や公園・緑地が完璧にデザインされても、土地利用の面で工場、住宅、商業施設などが調和して立地しなければ、都市は美しくならない。特に工場については建物が一般に汚れているので外壁を植樹によりカバーすることが望ましく、出入する汚れたトラック等も一般市街地からは分離することが望ましい。住宅や商業施設は一般的に敷地規模が大きければ美しくデザインされ、小さければどうしても外壁が汚くなってしまう。地区計画により敷地の最小規模を決めて、それ以下の面積に分筆されることを防ぐ必要がある。また、住宅の庭や柵については緑化協定や建築協定により集団的に調和のとれたものとすることが望まれる。また、低層建物と中・高層建物とは機能的あるいは景観的に相容れないところがあるので、用途・容積制限等によりこれらを適切に誘導することも必要である。
(4) 自然地形との調和
都市のデザインは自然地形との調和を抜きに議論することはできない。例えば、古くから議論されていることであるが、高層建物は尾根に建てるのが良いか、谷に建てるのが良いかは議論が分かれるところである。前者はシンボリックであり、後者は自然に溶け込む可能性がある。従って、ニュータウン開発のようにシンボル性を追求する場合は前者に傾き、古い町の再開発などでは後者になる傾向がある。京都のまちは東、北、西の山々との調和を考えて作られたと言われるが、現在では京都ホテルや京都駅ビルのような高層建物が出現しており、地元での論争を引き起こしている。このように、自然地形と調和した都市デザインは極めて大切である。
(5)スカイラインの調和
都市を遠方から見たとき、そのスカイラインは様々である。ある高さで整っている場合と、全く無秩序に低層建物と高層ビルが入り混じっている場合とがある。また、その背景となる山の稜線との調和も考えなくてはならない。これを人の目の高さから見てみると、狭い道路に面して高層ビルが立ち並べば空が見えなくなってしまい、広い道路に面して低い建物が立ち並べば気が抜けてしまう。また、沿道の建物の高さがまちまちであればこれも落ち着きがなくなる。道路の幅員と沿道の建物の高さは黄金比が良いという見解もある。近代都市計画ではスカイラインの議論が若干おろそかにされていないだろうか。もちろんランドマークとしての高層ビルの価値、土地の高度利用のための高層ビルの価値など、その効用は大なるものがあるが、いかにも無秩序に林立するのであれば、それは都市デザインの欠如といわざるを得ない。高さ100フィートの煉瓦ビルで統一されていた丸の内や銀座が、現在では高さの異なる近代的ビルに変わりつつある。変化が有ってよろしいという議論ももちろん評価の対象にはなるが、統一という評価軸も忘れてはならない。
(6)電線類の地中化
電線類の地中化は昭和40年代からその必要性が叫ばれてきたが、都市デザインとは何の関係もない電力需要密度の壁に遮られて実現しない歴史が長く続いてきた。確かに、兵庫県南部地震では空中線の復旧が時間的に早かったことは否めないが、空を見たくとも電線類に邪魔されて、上を向く気がしないような町が日本や東南アジアに氾濫している。これらは何年かかろうとも地中化するか、電線類をまとめてもっと見やすいものとする必要がある。
4 部分的都市デザインの美しさ
都市の美しさの議論は、大概の場合都市全体を論じるのではなく、河畔、再開発地区、駅前、シンボル道路沿道などの限定された地域を論じることが多い。市民から見ても都市全体を見ることは殆んどなく、自分の生活空間を見ているのであるから、これは当然といえば当然である。また、都市全体のデザインは100年の計としても、部分的デザインであれば数年で完成できるメリットがある。それらの代表例を論じてみる。
(1)駅前、都心部などの美しさ
駅前のデザインは、広場とそれを取り囲む建物との調和により形成される。駅前広場の4辺は一辺を鉄道に接し、他の3辺を都市に向けている。都市に向けている3辺についても、道路部分と建物部分とに分けることができる。この建物部分がどのような形態で、広場の中の造作がどうなっているかが駅前のデザインを決めているということができよう。富山駅南口のように、道路部分ばかりが目立って、建物部分の表現が伝わってこない場合も例外的に存在する。広場内の造作は「駅前広場計画指針」4)に示されているとおり、その面積の約半分を歩行者および緑の空間とすることによりデザインされる例が多い。前面の建物についてはそのファサードのあり方に関する研究が少ないので議論しにくいが、福島駅東口のように再開発事業により美しく整えられた場合と、長岡駅大手口のようにこれといった計画性を感じさせないものとがある。
図1 富山駅南口(図中の%は都市計画の容積制限である。)
図2 福島駅東口(図中の%は都市計画の容積制限である。)
図3 長岡駅大手口(図中の%は都市計画の容積制限である。)
都心部のデザインは建物そのものといっても過言ではない。公開空地制度を計画的に利用して、緑と一体にデザインしている地区は潤いを感じさせるが、現実には金沢の武蔵が辻のように建物だけでデザインしているところが多い。
駅前とか都心部は多くの来訪者の印象を形成するところであることを考えると、なお一層デザインされるべきものであると考えられる。
(2)歩道・街路樹・照明などの美しさ
歩道、街路樹、照明は身近な町の美しさの主役であろう。いずれも道路に関するデザインである。
歩道の幅員は1.5m程度から10mを超えるものまで多様であるが、デザインできる歩道の幅員は最低でも4mくらいであろう。これを両側に確保すればそれだけで8mとなり、なかなか大変なことであることは言うまでもないが、将来に残るものとして確保しておくことが現代に生きる者の務めではないだろうか。
街路樹は常に剪定の憂き目にあい、電線の上に出ることはなかったが、近年電線類の地中化の進展に伴って剪定しないことも行われるようになってきた。名岐バイパスには街路樹がないので無秩序な屋外広告物の氾濫であるが、その裏の街路樹がある道路では屋外広告物による景観の混乱は見られない。街路樹が沿道の景観をリードしているのである。
照明は維持費がばかにならないので、商店街かニュータウンでしか議論されないが、中小都市や住宅地であっても省エネタイプの街路照明があってもいいのではないかと考える。やはり都市であれば照明はデザインの一部と考えるべきであろう。
(3)河川・水面等の美しさ
都市における水の役割は大きい。自然の水面を有するまちがこれを活用しないのは言語道断である。特に下水道の普及によって水質の浄化が急速に進んでいるので、市民が親しめる水辺の整備は、それだけで都市デザインの一翼を担っているといえよう。自然の水面がなくともそれとなく噴水や水の流れがあったりすれば、それはデザインである。
(4)美しい公園・緑地
公園や緑地が都市デザインの要素であることは言うまでもない。何も庭園などを作らなくとも、そこに空間と緑があればそれで絵になるのである。できれば周辺の市街地と一体化したデザインが求められることは言うまでもない。緑地については河川や斜面緑地が多いが、いずれも目につきやすいところであり、花や樹木を工夫して配置することにより都市のアクセントとなる。
(5)住宅地の美しさ
住宅地の美しさは区画道路の広さと宅地規模によるところが大きい。区画道路が6m以上あれば、通常は美しい住宅地となる。ただし、沿道の宅地に高木が植えられるだけのゆとりが欲しい。西欧の区画道路は幅員10m以上はあたりまえで、道路用地として植樹帯が確保されている。日本の区画道路にはその余裕がないが、古い歴史を持つローマにおいても狭い区画道路が多い。このことからすると、区画道路が狭いのは歴史と伝統によるものであることが類推される。いずれにしても、居住者の選択が単なるイメージではなく、もっと美観に訴えるようになれば、日本の住宅地もさらに美しくなることが期待できる。
(6)優れたモニュメント
モニュメントはその使い方により優れた効果がある。多くは彫刻やデザインされた工作物であるが、渋谷のハチ公などはそれが町のシンボルともなっているし、上野公園の西郷さんの銅像もそれがすでに景色の一部になっている。ただ、商店街の歩道に彫刻を置いている例は、その置き方によっては通行の邪魔になることもあり、歩道の幅員との関係を慎重に検討すべきであろう。モニュメントは、その活用方法次第で町を美しくするきっかけを与えるので、デザインと合わせてアート計画を検討することが必要となる。
5 維持管理により創出される美しさ
生け垣や外溝の美しさ、外壁・屋根などの調和と美しさ、調和の取れた屋外広告物、ごみのない美しさなどは都市のデザインと呼ぶのにふさわしくないかもしれないが、人に内面的美しさがあるように、都市についてもそこに住む人々が生み出す美しさを見逃すわけにはいかない。以下、事項別に述べる。
(1)生け垣、外溝などの美しさ
生け垣や外溝の美しさは目立たないかもしれないが、汚れたブロック塀と比較すると明らかに人間的であるといえよう。近年での地区計画でも、「生け垣等により開放的な街並みを作る」ことが定められるケースが多く見受けられるようになった。外溝についても自然石等で美しく仕上げてあると、まち全体の印象が変わってくる。また、地域振興整備公団の鳥取ニュータウンのように官民境界のわずかな空間を利用して花壇を設ける例もある。
(2)外壁・屋根などの調和と美しさ
外壁・屋根についてはそれらの材質と色彩が問題となる。「藏のまち」では白い漆喰壁と黒瓦ということになるのであろうが、一般の市街地においてもおよそまちに不似合いな色彩が見受けられる。建築協定か地区計画で最小限の取り決めはしておくことが必要である。また、幹線道路沿道や古い街道筋においては階高や軒先の統一が必要となる。隣接ビルで階高がまちまちであったり、古い街道筋の軒先が不統一であったりしては町の景観が保てない。
屋根はビルの場合の塔屋、排気塔等が景観をこわす要因となる。近年ではおおいを付けて景観に配慮したり、屋上緑化を施したりする例が見受けられるが、その普及は進んでいない。戸建て建物の場合は屋根の傾斜、色彩がバラバラではまちの景観が統一されない。前述の統一と変化のどちらを求めるかという議論はあるが、地域ごとの個性を生かした調和と美しさを追求したい。
(3)調和の取れた屋外広告物
街路樹のところでも触れたが、屋外広告物を抑制するためには街路樹が有効である。アーケードの設置も屋外広告物を抑制する効果がある。屋外広告物が少なすぎるのは訪問者にとって不便となるが、ある程度は街区案内板等で補完できることを認識すべきである。
(4)ごみの無い美しさ
道路側溝や道ばたのゴミは著しくまちの景観を悪くするものである。この種の美しさは当該地区の居住者の感性そのものであり、一般的に短期居住者が多い地域ではゴミの始末が汚くなるばかりでなく、それを拾い集める心がけに欠けることが多い。ゴミ集積場所においても戸建て住宅居住者とアパート住民との軋轢が各地で生じている。都市デザインと合わせて居住者の心がけを改善することが求められている。
以上、事項別に論じてきたが、最近では「美しいまち」、「潤いのあるまち」、「緑豊かなまち」、「歴史のまち」、「文化の香りがするまち」などという言葉が氾濫している。多くの町はこれらの言葉を書き込むことで満足してしまい、まちなかの一部だけをモデル的に整備して終わりになっている。今後においては百年の大計として住民と共に取り組むことを提案したい。
6 都市デザインのためのその他の要因
まちづくりで気になることは設計標準の類である。建築設計標準、道路設計標準、区画整理設計標準など多くの標準があるが、時として自由な設計を阻害している。これらの多くは安全を確保するために必要な最低基準を定めているはずであるが、それを超えて自由な設計をしようとすると無駄使いの扱いを受けて、補助金がカットされるという慣習がある。また、標準どおりに作っておけば安心という心理もある。そのため戦後の日本においては似たような町があちこちに出来てしまった。画一化である。
日本には「住めば都」という言葉がある。住んでいるうちにその土地が気に入ってきて、ほかのどこよりも自分にとって良い所になるという意味であろう。ただ、この場合の「都」には都市デザインまで考えてのことではなく、日々の生活の中から出てきた言葉であろう。そもそも都市デザインは個人の考える範囲を超えているのかもしれない。「美しい都」という言葉は市民一人一人の言葉ではなく、誰かがタクトを振って、自分に関係なく出来てくるものと市民は感じているのではないだろうか。そうではなくて、マスタープランなるものが市民に浸透し、市民一人一人が親から子に繋いでいくことができたとき、はじめて「美しい都」が出来るのかもしれない。そのような意気込みでマスタープランを考え、標準設計を超えた設計も議論してもらいたい。都市のデザインという言葉の中に、従来のランドスケープや美観、景観のみでなく、内面の美しい都市デザインを合わせて議論してもらいたいと考えている。
また、経済的問題としてコストと景観との関連性がある。例えば区画整理の場合、より景観を良くしようと思えば減歩が高くなり権利者の反対が生まれる。屋上テレビアンテナはCATVを導入すれば解決することではあるが、かなりの月額利用料金を負担しなければならない。やはり、都市のデザインをしようと思えば公的、私的な負担が伴うのである。
最後に、都市デザイナーという職能について触れておきたい。2001年8月に「NPO日本都市計画家協会」が発足した。これは「都市計画家」という職能が日本に定着することを願っている約500名の専門家集団である。都市デザイナーは言うまでもなく都市計画の専門家でなくてはならず、「デザインは良いけど交通が不便」ではいけないのである。また、都市デザインの評価は定説が無く、歴史に任せるしかないのである。従って、マスタープランから街角の計画まで、およそ都市デザインに関する作品を提案した者の氏名を歴史に残す努力が必要ではないだろうか。街角に「この街並みは凸山凹太郎氏により2001年にデザインされたものです。」と書かれた石碑があれば、都市デザインに対するアカウンタビリテイが発生し、都市デザイナーという職能が成立するきっかけともなると思われる。
7 まとめ
以上、都市デザインの本質を論じてきたが、全体としての美しさはいずれの事項についても長い時間の中で解決してくべき問題であり、部分的美しさは現在の事業中地区を含め中期的課題といえよう。維持管理により創出される美しさはいずれも居住者の努力により直ちに実行可能なものが多く、その早期実践が望まれるものである。
基本的にはそこに住む居住者が都市デザインに興味を持ち、具体的イメージを共有することが重要であり、そのための教材等を供給する必要がある。また、次世代を担う若い世代がどのようなまちを望むかについて、啓蒙することと合わせて考えを把握することも必要であろう。日本のまちは汚いといわれるが、そのようなことは決してなく、まちには本来美しいところと汚いところが同居しているものであり、そのような観点から世界のまちと比べてみれば、日本のまちは全く見劣りしない都市景観を有しているのである。
参考文献
1)L. マンフォード著、生田 勉訳「歴史の都市・明日の都市」新潮社、1969年
2)J. バーネット著、倉田直道・倉田洋子訳「新しい都市デザイン」集文社、1990年
3)安藤直見著「ヨーロッパ広場紀行」丸善、1997年
4)駅前広場研究会編「駅前広場計画指針」技報堂出版、1998年