東大紛争真っ盛りの大学院の途中で結婚。卒業後何故か専業主婦になってしまった。夫が留学することになり、またハーバード大学で研究をはじめ、日本に帰って東大で助手を2年。しかし、子供ができたので、退職。また専業主婦となった。いつかまたとの思いから、33歳の時ヨチヨチ歩きの息子を東大のそばの幼稚園に入れて毎日手を引きながら、本郷に通 いはじめて7年、やっと博士となった。何か仕事をと思った矢先、父が倒れる。フルタイムの仕事もないわけではなかったが、40歳すぎで、寝たきりの父の世話をしながら、責任ある研究を新たに始めるのはとても無理だと思い、非常勤講師をしながら無給の研究員として東大で仕事を続けることとした。フリーの方が父の世話をしやすいと思ったのも確かである。
老人介護を自分の家で行なうことになろうとは思ってもみなかった私にとって、その大変さは、頭で考えていたこととは天と地ほどの大きな隔たりがあったが、今となっては、父が娘に「実状を知らずに、軽々に何かものを言ってはいけない」ことを教えてくれたように思う。父に感謝である。睡眠時間3時間ぐらいで頑張って実験と子供の世話と父の介護とPTAとをこなした。父にうつせないので「風邪は引けない」、介護には力がいるので「転んではいけない」と自分に言い聞かせていた5年間。またまた研究はスローペースとなった。父が亡くなって、子供が高校生になって本当に初めて焦らずに研究ができるようになったが、中年真盛り、何処かに就職するのは殆ど絶望であった。それでも研究の方は細々とはいえ順調に進み、今迄こつこつと溜め込んできたデータを使って面 白い結果が得られるようになった。英文の論文も次々と発表できるようになり、日本では無給の研究員でも、国際的には仕事だけで評価された?ためか国際シンポジウム等で招待講演もさせてもらえた。自称「インターナショナル フリーランス バイオケミスト」の面 目躍如!
夫は何回も単身赴任を余儀なくされたが、私としては、パートの妻で、いろいろな土地を見ることができた。ママを少しは尊敬していたことがあるかもしれない息子も大学、大学院を経て社会人となった。とっくに母親のメッキははがれ、今では良き友人である。お互いが手に入れた本を読んで侃々諤々。60歳にもう少しの夫は、「難しいことに口を挟むと無知がばれる?」とばかりしらばっくれている。 ジグザグでまわり道だらけの研究生活ではあるが、子育ても自分なりにきちんとやることができ、父の面 倒も最後までみられ、PTAの活動もかなり熱心にやれ、本当の専業主婦の母親達の悩みを聞けたのも私のものの見方に幅を与えてくれたとも考えられる。 90歳半ばの超高齢な夫の両親、そして85歳の私の母の介護と悩みはつきないが、「若いつもりでいて、もう人生の第一ラウンドは修了間近?」さて、私の老後はどうなるの? なるようにしかならない・・のでしょうね。
@ タイトル ゆっくりいこう!パート2
A 現在の氏名(ふりがな) 小浪 悠紀子(こなみ ゆきこ)
B 入学時の氏名(ふりがな) 泉 悠紀子(いずみ ゆきこ)
C 卒業年(西暦) 1968年
D 卒業学部・学科 薬学部・製薬化学科
E 現在の肩書き 東大新領域 客員共同研究員 共立薬大・昭和大・聖路加看護大 非常勤講師 大東医専 嘱託講師
F 略歴 ハーバード大学研究員 東大薬学部助手 非常勤講師
ゆっくりいこう!パート1は、さつき会のエッセイ集「さつき1」(さつき会25周年記念エッセイ集)のなかにあります。当時はワープロもパソコンも発達していませんでした。原稿用紙に書きました。改めて入力しなくてはなりません。時代はどんどん変わっていきます。私も変わらなくては・・・・・。