今年2月94歳で舅が亡くなる。昭和5年の卒業である。3月に初めて故郷の島根を訪ね、立派に保存された石見銀山の大森の町並みに驚いたが、「ここから東大はいかにも遠い」というのが実感。湯島の「江知勝」は、姑とのデートの場所であったとか。鉱山の仕事で京城(今のソウル)に行き終戦。家族7人命辛々引き揚げてきた。当時3歳の夫は、姑の着物の袖をつまみひたすら歩いた。「はぐれてしまうかと思ったが、黙々とついてきたこの子は我慢強い」と姑はいう。残留孤児も遠くの話ではない。そして、三つ子の魂も健在である。戦後、舅は教育に関わる。葬儀への参列者も多く、「山陰中央新報」は特集を組んだと聞く。最後となった正月、建設省(現在の国土交通 省)に入り島根に赴任した孫である息子に思わず石見弁を話したという。その時、舅の脳裏に浮かんだのは、大森の町並みかそれとも宍道湖の夕日であったか?東大に遙々やってきた舅は、ほど近い上野の寛永寺に眠る。 |
7月の終わりに国際女性技術者・科学者会議出席のためカナダを訪問。オタワは初めてである。前回日本で開催した会議では事務局長補佐という裏方に徹し、発表はしなかった。今回は私の研究の一端を口頭発表することにした。アフリカやインドからの参加者があでやかな民族衣装でパーティーに出席することを考え、和服を一式荷物に加えた。発表も終わり、バンケットで着物を着た。オタワの町の真ん中で、振り返る男の子もいて、60歳近いおばさんの自己満足もあった。会議の後、駆け足でモントリオールとケベックを訪ねた。30年振りである。モントリオールのノートル・ダム大聖堂内部の装飾に感激した私に、当時ボストンの研究室の同僚のイギリス人が、「ヨーロッパに行けば沢山あるよ」といった。少しヨーロッパを見た目でもう一度見たかったが、夜は光のショウをやっていて内部は布で覆われていた。昨今京都でも、昼とは別 に夜のライトアップをやっている。洋の東西を問わず、お寺も教会もなかなか世知辛いのである。ケベックは前とは違い下町がまさにフランスであった。変わらないのはホテル・シャトー・フロントナック。大正の初めにニューヨークで結婚した私の祖父母の新婚旅行の地である。帰国後夫にその話をすると、「今度泊まろう」という。国際会議でもなければ30年間行かなかったところに直ぐにいけるとも思えない。北米大陸の、しかも東の、そしてカナダはやはり遠い。 |