ホスピタリテを育むまちづくり

 

日本ホスピタリテイ・マネジメント学会

第11回全国大会

2002.11.9 於長崎ハウステンポス

東洋大学大学院国際地域学研究科教授

正会員 小 浪 博 英

 

1.序

 まちづくりを提案するとき、ホスピタリテを前面に出したことがかって有っただろうか。一般的にはその目的として、道路の整備・拡幅、建物の建替え、公園・下水道等の整備、防災性の向上、景観の整備などがあげられている。この場合、そこに住む人々の生活の舞台を創るという観点が漠然として入ってはいるものの、それが前面には出ていないのである。

近年におけるまちづくりでは住民参加が殆ど必須となり、そのプロセスの中で住む人の意見を採り入れるという建前はできてきた。しかし、実際にはコンサルタントや役所が書いて指し示す原案を、興味を持った数人程度の住民が修正し、僅かながら住民の意見が採り入れられるというのが現実である。その背景として、公務員の一律人員削減により、仕事が増加傾向にあるまちづくり担当職員が激務になっていることや、発注の透明性確保という発注側の一方的な都合によりコンサルタントの受注単価が極度に下落していることにより、まちづくりの専門家がそれほど長い時間を住民と共に過ごすことができないという事情がある。また、住民自らがまちづくりをする制度も財源も乏しいのである。

本論ではこのような背景を踏まえつつ、生活の舞台としてのまちづくり、そこに育まれる郷土愛とホスピタリテイについて言及してみたいと思う。

 

2.まちづくりと住民参加

 まちづくりにおける住民参加には法定手続きによるものと任意のものとがある。例えば、法定のものとしては都市計画の案、土地区画整理事業や市街地再開発事業の事業計画の案などの説明会・縦覧とそれに伴う意見書の提出・審査、ならびに各種審議会への住民代表委員の任命などがこれにあたる。一方、任意のものとしては、調査費などを活用したまちづくり研究会の開催、インターネットによる住民意見の募集、各種アンケート調査などである。

法定のものは一事不再理が適用されるので最後の決着ということになり、必然的に任意のものに対して大きな期待が寄せられることになる。しかし、住民自らの意志により結成される研究会は希であり、多くの場合は役所側の何らかの都合で呼び掛けがなされることとなる。実はここに問題がある。それは、役所の定員が伝統的な農業や福祉関係に多く配分され、建設やまちづくりには十分の人材が配置されないという役所側の理由にも起因するが、10年、20年先のことを住民とゆっくり勉強できるようなまちづくりの人材やそのポストは存在しないのである。従来は一度仕事を受けたコンサルタントが、時間をかけて住民との対話を行い、次の仕事を発掘することをやっていたが、現今では競争入札が一般的になり、新たな仕事を発掘しても随意契約制度が活用されないため自分の仕事にならなくなった。そのため、そのような努力をすることが営業上困難になってしまったという事情もある。これは、「コンサルタントは少なくとも一般にいう業者とは違う」という認識が我が国では出来ていないことによる。

役所側からの呼びかけによる勉強会には、その目的が道路の拡幅とか広場の新設などの土地の取得が前面に出ている場合が多く、したがって、最初から反対派が存在するのである。役所の言い分は「道路や広場は既に都市計画で決まっているから変えることはできない。」というものであり、それでは反対派の人達は勉強会に参加できないことになる。都市計画の施設は計画の決定と同時に都市計画法第53条による建築制限がかかるため、変更することは確かに大変かもしれないが、その当初目論んだ機能が生かせる限り、若干の変更についても住民と話し合える柔軟な発想が必要ではないかと考えられる。現在、東京都の外郭環状道路がそのプロセスに入ったところである。

平成13年度に発足した「NPO日本都市計画家協会」(会長、伊藤滋)は、「およそまちづくりに興味のある者は都市計画家であり、官に頼らずまちづくりを実践する」ことを勧めている。問題はその手法である。そのため専門家の長期派遣を考えているが、長期派遣が可能な専門家は高齢者のボランテイアに限られる場合が多く、インターネットのGoogle検索で「人材派遣・まちづくり」を検索すると1,200件程度のヒットはあるものの、殆どが特定地域でのまちづくり研究会等を支援しようとするもので、かつ短期派遣のものとなっている。必要なことは、住民のニーズにあった専門家が現地に滞在できることであり、我が国の終身雇用制度が崩れつつある現今において、そのような職能を育てることが急務となっている。

(http://www.mmjp.or.jp/jsurp/jinzaisien/jinzaisien.htm参照)

もちろん年金生活の高齢者でも良いのであるが、全くのボランテイアということもできず、滞在費や若干の報酬を払えるような基準を早急に確立する必要がある。

 

3.まちづくりの理念

 まちづくりの理念は都市計画法第2条と第3条に次のような記述がある。

第2条:都市計画の基本理念

 都市計画は、農林漁業との健全な調和を図りつつ、健康で文化的な都市生活及び機能的な都市活動を確保すべきこと並びにこのためには適正な制限のもとに土地の合理的な利用が図られるべきことを基本理念として定めるものとする。

第3条:国、地方公共団体及び住民の責務

 国及び地方公共団体は、都市の整備、開発その他都市計画の適切な遂行に努めなければならない。

2 都市の住民は、国及び地方公共団体がこの法律の目的を達成するため行う措置に協力し、良好な都市環境の形成に努めなければならない。

 

 つまり、健康で文化的な都市生活、機能的な都市活動ならびに良好な都市環境の形成が現行都市計画の基本理念であると考えられる。これについては概ね理解できるものと思われるが、強いていえば、住民の願いである「安心、安全、便利、愛着」という言葉が使われていないため、専門家の間では法律の記述は「都市計画」で、住民が欲しているものは「まちづくり」であるという議論がなされるようになった。良く読めば、健康で文化的な都市生活はまさしく安心、安全であり、機能的な都市活動は便利であり、良好な都市環境は愛着であろうが、言葉が通じていないのである。両者は本来同一のものであるが、それを解いて聞かせる専門家がその努力を怠っているということもできよう。

 

4.居住地の選択とホスピタリテイ

 人が何処に住むかについては多くの調査がなされており、インターネットだけでも11,000件余のヒットがある。当然東京圏等の大都市と地方とでは選択の要因が異なり、大都市では勤務地との関係、交通機関、価格などが優先し、地方では近隣関係、親子関係等が優先する。今ここで考えなければならないことは、一度住んだ人が出ていかないまちづくりである。それは前述の安心、安全、便利、愛着に言い尽くされていないだろうか。もちろん、地代等の経済的条件はこれらに優先するが、どうしても出ていきたくなければ、人はそこの地代等を支払えるべく努力をするのではないだろうか。

 さて、仮にこれらの条件に一致する終の棲家を得たとすると、人にはそこを他人に荒らされないように囲い込む気持ちと、誰かに尋ねてきてもらいたい気持ちとが同時に発生する。これがホスピタリテイの源泉であると考えられる。この両方の気持ちは、現在の自分の居住環境にある程度満足していないと生まれてこないのである。更にいうならば、ある程度満足のいくまちづくりがなされていて、人は初めてホスピタリテイの心を発揮できるのでないかと考えられる。

 次に、愛着について考えてみよう。「住めば都」という言葉はあるが、現在のように核家族化が進むと、人は嫌なことが多発するところからは早々に転出してしまう。それは、住宅の総戸数が世帯数を大きく上回り、ある一定の所得以上であれば比較的簡単に新しい住居を見つけることができるからである。従って、多くの人が長く定着する所が本当の意味での「住めば都」であると考えられる。また、長く住めばそこに愛着が発生するのである。その期間は人によって異なるであろうが、少なくとも10年程度ではないだろうか。ただ、ここで気をつけなければならないことは、その間にまちが変わりすぎてしまうと愛着が発生しないという事である。また同時に、まちが朽ち果ててしまっても同様である。つまり、まちも変わらず人も変わらず、それでいて安心、安全、便利であることが愛着を生み、ホスピタイテイの源泉となると考えられる。

 

5.まちづくりとホスピタリテイ

 以上により、ホスピタリテイを育むまちとは、基本的には都市計画の理念が活かされており、朽ち果てることもなく、人の転出入も激し過ぎないまちということができる。これを具体的に検討してみる。

 まず、既存のまちの中心部であるが、現在の居住者が転出しないようなまちづくりが望まれる。そのためには中心市街地の活性化が必須となるが、現在の商店街はほぼ例外なく沈滞傾向で、空き店舗が増加している。また、高度成長期に誘致した核店舗も撤退が相次ぎ、駐車場になろうとしている。その原因は、多くは郊外店舗との間の競争に堪えられないからだといわれているが、本当にそうであろうか。長浜市や小樽市のように歴史を活かしながら観光客を多く呼び込むことにより活性化しているまち、横浜市や旧大宮市のように工場跡地や操車場跡地をうまく転換して活性化しているまち、その他にも大学を多く誘致した八王子市、温泉と文化とをうまく結合した湯布院町など、それぞれに恵まれた条件はあったにせよ、その発想がなければ何も起こっていないことは確かである。中心市街地の衰退を声高に喧伝する町の多くは、その発想がなかったのではないだろうか。「国が100年にして興り100年にして衰退する。企業が30年にして起こり30年にして衰退する。」といわれるように、安泰にあぐらをかいていれば待っているのは衰退である。多くの中心市街地は安泰の上にあぐらをかいていたといわざるを得ない。以前、あるまちの青年会議所メンバーは40才にして未だに経営の実質は親が握っているといって嘆いていたが、言い換えれば、時代に乗り遅れているのである。そのための区画整理や再開発であればどんどん事業化すべきである。安心、安全、便利のためにはどうしてもゆとりのある道路と駐車場に加えて、商業活動が居住環境を脅かさない、居住者が商業活動の邪魔をしない土地利用上の工夫が必要なのである。また、それによって都市景観も向上するのである。もっとも、古河市や足利市のように、狭い歴史的地区をそのまま保全して、その外周に道路を整備することも有効である。いずれにしても企業主と住民との連携プラス官の協力なくしては達成できないことである。

 次に、郊外ショッピングセンターを考えてみよう。郊外ショッピングセンターは今後何年もつであろうか。これが長くもつものであればその中から優れたホスピタリテイが生じてこようが、流動的であれば真のホスピタリテイは生まれてこないと考えられる。更に、ホスピタイテイは人の心の問題であることからすれば、そこにはヒューマンスケールに関する課題が存在する。百貨店と個人商店との違いは、前者が便利で機能的であるのに比して、後者は親切で信頼性が高いことが必要ではないだろうか。親切の中には当然ながら感度の良い品揃えも含まれる。顧客のニーズに合わなければそれは親切とはいえないであろう。ヒューマンスケールの面からは個人商店に歩があるはずである。あとはコストの問題であり、割高なコストを如何にサービスでカバーできるかであろう。つまり、郊外ショッピングセンターは百貨店的であり、都心部は個人商店的であるといえないだろうか。まちづくりの面からも都心部の面的魅力に対し、郊外ショッピングセンターは線的・点的であり、少なくとも歩く人にとっては面白みに欠けるといわざるを得ない。

 最後に新しい市街地をみてみると、混在、混住の面白味に欠けるきらいがある。何処までも続く同じようなビル、同じような住宅地、これでは単調すぎる。多摩ニュータウンが30年余になるが、必ずしもふるさと意識を醸成しているとは思えない。それは、計画的ニュータウンという気負いからあまりにも細部まで決めすぎていることと、居住者の転出入が激し過ぎるからであろう。もっと緩い土地利用計画の下で、細部についてのきめ細やかな地区計画等を活用することが有効であろう。

 

6.まとめ

 ホスピタリテイを育むまちづくりとしては、そのための基礎的条件、実現方法、維持に分けて考えることができる。

 基礎的条件は、次のように整理できる。

(1)安心、安全、便利が実感でき、愛着の持てるまちであること。

(2)転出、転入があまり激しくなく、コミュニテイが形成できるまちであること。

(3)囲い込みをしたいと同時に訪問者に何かを見せたいまちであること。

 実現方法としては次のように整理できる。

(1)積極的な住民参加と、勉強会の開催等による「まちを活かす」住民感覚の醸成。

(2)公共またはコンサルタント等、良き指導者の育成と活用。

(3)道路、景観等、適切な都市施設整備を区画整理等により実現。

(4)極端な土地利用の純化をしない。

(5)歩く人の感覚を大切にする。

 維持については次のように整理できる。

(1)好ましいコミュニテイの形成により転出者を極力抑制。

(2)まちなみ、景観等の保全のための地区計画等の活用。

 

 家庭の暖かさ、職場の暖かさ、まち全体の暖かさの中で、ひとりひとりの個人的性格や生い立ちなどが総合されて望ましいホスピタリテイ精神が生まれてくるものであり、本論ではそのうちのまちづくりについて論じてきた。この種の議論は定量的に分析することが困難であり、定性的・経験的に議論を深めることが重要であろうかと思われる。

 また、ホスピタリテイ全体に関しては、所得水準、犯罪発生率、教育レベル、福祉水準、公共交通の便利さ、気候・風土、歴史、失業者数など、まちに関する広範な指標の中からホスピタイテイに寄与する度合いの強いもの、弱いものなどを峻別していく方法も有効かもしれない。

 更に、対価を求めるサービスとの差別化なども今後の課題である。