(本稿は社団法人日本土地区画整理協会の機関誌「区画整理」2002年5月号に掲載されたものである。

都合により図を全て省略してあるので、図を見たい方は直接雑誌を見ていただきたい。)

 

 

まちづくりにおける土地区画整理事業の役割

The Role of Land Readjustment in Urban Development

 

東洋大学教授 小浪博英

Hirohide Konami

明星大学名誉教授 広瀬盛行

Moriyuki Hirose

 

はじめに

  「土地区画整理は都市計画の母」と言われ続け今日に至っている。本文は、なぜ土地区画整理が、「都市計画の母」と言われ続けてきたかを、これまでにおける都市の発展と区画整理の実績により明らかにすると共に、更に今後において区画整理が果たすべき役割と課題について考察せんとするものである。尚、以上の標語は、昭和10年に創刊された雑誌「区画整理」の表紙を飾ったものと伝えられているが、阿部喜之丞氏の回顧によると、大正の末期から昭和の初頭にかけて、石川栄耀と共に愛知県で土地区画整理事業の推進に活躍されていた兼岩さん(元参議院委員)の造語であったと述べられている。(土地区画整理の回顧  阿部喜之丞、「区画整理」6701)

 

1.我が国都市計画法の制定と土地区画整理制度の創設

  20世紀を迎えた頃から、我が国においても都市集中化が急速に進む時代となり、各都市において新市街地を計画的に導く新制度の必要性が高まってきた。この要請に答えるべく整えられたのが、大正8年(1919年)に成立した都市計画法であるが、これは1909年に成立したイギリスの都市計画法(住宅及び都市計画法)から僅か10年遅れの制定であった。この新しい法制度の内容をどの様に構成するかは極めて重要な課題であったと予想されるが、区画整理の名はここで生まれ、そして法的に位置づけられ、都市計画の実務において非常に大切な役割を担うことになった。都市計画法の起草に尽力した池田宏氏は、都市計画要論の中で次のように述べている。「土地の区画整理制を新たに認めたる事亦特筆せねばならぬ、元来都市計画区域内の土地は、漸次宅地としての利用を見るに至るべき運命を有するものなるを以てその宅地としての利用をして秩序あらしめ、以て自然に造成せらるべき市街地をして健全なる発展計画に髄はしむることは極めて必要なる措置と言わねばならぬ。」又、飯沼一省氏は自らの著書、都市計画の理論と法制、で都市計画法における区画整理の役割を次のように述べている。「都市の土地を整理して其の街郭及劃地の配列をして整然たらしめ若美観的ならしむことは、都市計画制限の制度又は公用徴収制度のみを以下に運用するも其の目的を完全に達することを得ない。従来土地の区劃を整理する目的をもって行はれたる二三の方法(私有地の分割、耕地整理、建築線指定)がないではないけれども都市計画の見地より見て不完全なるを免れないのである。」

 土地区画整理の制度が創設される以前は、農地の整備を主目的にした耕地整理が主役であった。耕地整理は明治22年法的に位置づけられて以来、明治29年、30年、33年(旧耕地整理法の制定)、により制度に改良が加えられ、明治42年の耕地整理法の制定で万全の法体制が整い、農地の整備と宅地の整備に多くの実績を残しつつあった。都市計画法は耕地整理による宅地開発の問題点を改善すべく新制度を創設したのであり、このことによって区画整理が「都市計画の母」となる礎が出来たと言えよう。

                                                           

2.関東大震災と区画整理による復興計画

  都市計画法が公布された3年半後の大正12年9月1日、関東大震災が発生し東京と横濱に未曾有の大災害をもたらした。東京市内では市域面積の44%の3,465haを焼失し、死者58,140人、行方不明者数10,556人に達する前古に例をみない災害となった。 

  震災直後の9月2日に内務大臣に就任した後藤新平は、即日帝都復興の4大方針を提言、9月6日の閣議に「帝都復興の議」を上申、9月26日には復興院を設立し人材を結集して、復興計画の策定に心血を注いだ。計画の骨子が決まるまでには約4ヶ月を要したが、特に執行予算と事業手法の決定には多難な紆余曲折があった。特に事業手法に関しては、当初の一括買収方式、建築線による強力な規制と一部地区での区画整理方式、又は全面区画整理方式の採用が検討されたが、最終的には区画整理による復興事業を前提とする「特別都市計画法」が制定され、その後この法律に定める特別都市計画委員会の議を経て、東京では焼失面積約3,471haのうち3,119haを65地区に区分(東京市50地区、復興局15地区)し、大正13年度から5カ年継続事業で実施することが決定され、この大事業は概ね計画どおりに完成することが出来た。          

 世界に例のないこの大規模な復興計画を、我が国での最初の適用であった区画整理によって成功し得たことは、この事業に携わった人達の尽力によるものであるが、基本的には大正8年に成立を見た都市計画法が区画整理の制度を創設していたこと、永年に亘って蓄積された耕地整理の技術があったこと、更には限られた予算でも各地権者の協力によって事業化できる区画整理の合理性によるものと考えられる。震災復興計画で果たした区画整理の功績は、大災害を契機として東京都心の近代化を進めたことは勿論のこと、創設された土地区画整理の範を世に示したこと、更にはこの事業の実施により多数の専門家が育成されたことであると言える。我が国では、この時点から、都市の集中化と、それに対処するための区画整理が本格的に普及することになるが、復興計画はその先駆けとなった。

                             

3.土地区画整理による新市街地の計画的誘導 

 我が国の主要都市における人口の推移をみると、ロンドン等の先進都市から概ね半世紀遅れて集中化の傾向が生じ、この傾向が次第に加速されるのは、都市によって若干異なるが、都市計画法が制定された1年後の大正9年(1920年)頃からである。その後、20年間(昭和15年時点)における増加傾向を見ると、東京では213.7万人から677.9万人に、大阪市は125.3万人から325.2万人に、名古屋市は43.0万人から132.8万人、京都市は59.1万人から109.0万人に増加している。 人口の都市集中化は当然のことながら市街地の拡大化を促すことになるが、これを計画的に誘導する必要性から都市計画法に区画整理の制度(耕地整理法を準用)が創設されたことは前述のとおりである。区画整理が法的に位置づけられるまでは、主として耕地整理がその役割を担ってきていたが、東京震災復興計画において区画整理実施が決定した頃から、その影響と内務省による指導もあり、日本の主要都市で急速に区画整理が普及することになる。

  当時の資料によると、大正13年から昭和6年までの7年間(初期段階で区画整理が急速に伸びる時期)に認可を受けた事業(耕地整理は除く)を主要都市でみると、東京44地区で1,902.1ha、 横濱5地区で41.0ha、京都19地区で637.7ha、大阪44地区で2,956.1ha、神戸11地区で520.2ha、名古屋44地区で2,974.6ha、堺8地区で388.6ha、福岡6地区で433.5haとなっている。戦前における昭和7年以降の動向をみると、都市への人口の集中化は一段と加速し、概ねそれに比例する勢いで認可件数と施行面積は増加してきている。例えば名古屋市で見ると、昭和6年10月から18年12月までに、新たに54地区、施行面積2,131.5haが認可されている。更に特筆すべきはこの時期に至ると、区画整理事業を採用する地方都市が急速に増加してきた点である。          

 以上の様に、我が国において都市への人口集中化と市街地の拡大化が本格的に進む時期に、都市計画法の目的に沿って、土地区画整理が新市街地を計画的に誘導することに果たした役割は誠に大きいと言える。

                                  

4.戦災復興事業の実施よると旧市街地の再生                      

 第2次世界大戦により、日本の主要都市は焦土と化した。戦後の復興計画は占領体制下の政治的社会的混乱、極限に近き国民生活の窮乏という条件のもとに始めることとなった。政府は終戦の年、昭和20年11月5日戦災復興院を設置し、11月30日に戦災の被害が特に激しかった115都市(被爆は215都市)を対象とし、復興計画策定の総合的な指針と、約65,000haを 土地区画整理事業で復興する内容の「戦災復興計画基本方針」を閣議決定した。そして翌年9月に、「戦災復興特別都市計画法」を制定し事業実施の体制を整えた。

  関東大震災の時とは異なって、敗戦・極度の混乱と疲弊という悪条件のなかで、迷わず基本方針が決定できたのは、関東大震災の復興計画を区画整理によって見事に達成できた経験からであったと言えよう。事業の過程において、戦後の経済情勢の厳しさと、GHQの指導により「経済安定9原則−ドッジライン−」による緊縮財政策による公共事業の見直しが行われることになった。 戦災復興計画もその影響受け、政府は昭和24年6月に「戦災復興都市計画の再検討に関する基本方針」を閣議決定し、その方針により各戦災都市復興計画の縮小化が進められるることになった。この方針の受けとめ方は、その都市の諸条件によって異なったが、結果としては戦災を受けた102都市が約28,000haに及ぶ土地区画整理事業で、主たる復興事業を完成させることができ、この困難な事業の達成により、歴史的な城下町から成長した日本の多くの都市は近代都市都市としての基盤を整えることができた。敗戦国で僅か10年にしてこれ程多くの都市の復興計画を実現させたことは世界に例のないことであるが、この誇りうる事業の成果は、日本の都市計画に伝統的な区画整理の技術が育っていたからにほかならない。

             

5.戦後の急成長時代における市街化の計画的誘導

 日本における多くの都市は、戦災により人口が一時激減したが、昭和25年の朝鮮動乱を契機として、経済が急速に活性化し、再度の都市集中化が始まったが、その勢いは過去に例をみないものであった。例えば、3大都市でみると昭和25年から50年の四半世紀に東京区部では538.5〜864,7万人に、大阪市では195.6〜208.0万人に、名古屋市では133.7〜208.0万人に急増している。昭和40年頃には、以上の大都市では人口収容力の限界近くにまで増加し、その後は恰も震源地で発生した津波が周辺に広がっていく如くに、人口急増の波は周辺市町村を飲み込みながら、次第に巨大な大都市圏を形成するに至った。図−1は各年次都市交通年報により3大都市を中心とする通勤圏(元運輸省設定)の人口推移をみたものであるが、如何に増加の傾向が激しいものであったかが分かる。

 

 都市交通年報によると、こうした人口の都市集中化の傾向は大都市圏のみでなく、例えば札幌、仙台、広島、福岡市等の地方中核都市圏、その他の地方中心都市においてもみられる現象であった。都市における人口の増加は、当然の結果として市街地の拡大化をもたらすことになるが、その傾向を昭和35年から集計が始まった人口集中地区の推移でみると、全国の人口集中地区面積は昭和35年では38.65万ha、40年で46.05万ha,50年で82.75万ha、60年で105.71万ha、平成7年で122.61万haとなっており、この35年間に約84万haが新たに加わったことになる。この様な未曾有の都市集中化と市街地の拡大化を計画的に誘導することが、市街地整備計画上の重要な課題であったが、土地区画整理は昭和29年の土地区画整理法の公布を契機として諸制度を整え、昭和30年設立の日本住宅公団事業による住宅供給、38年の新住宅市街地開発法公布によるニュ−タウン開発と共に、新市街地の整備に極めて重要な役割を果たしてきた。平成9年の都市計画年報でみると、平成9年3月現在で日本の諸都市における区画整理の実績(施工中を含む)は、施行地区は10,484地区におよび、施行面積は356,654haに達している。これを土地区画整理法制定以前と以降に区分してみると、前者が1,177地区、施行面積42,856.5haであったのに対し、後者は9,307地区で、施行面積313,797.7haとなっている。この数値からみても、土地区画整理法制定以降の実績は、102都市の戦災復興事業で活躍した技術者とその後継者によって築かれた、まさに日本における区画整理の黄金時代であったと言えよう。予想を遙かに越える歴史的な都市集中化の時代に新市街地を計画的に誘導することに果たした区画整理の功績は誠に大きいものであった。しかし、特に戦後の都市集中化があまりにも激しい勢いで進んだために、拡大する市街地を面的に整備することが間に合わなく、特に大都市の周辺諸都市では多くのスプロ−ル地域を容認せざるを得ない結果となっている。

                       

6.四大都市における実績

 大正8年の都市計画法制定時に土地区画整理計画制度を導入した考え方は前述のとおりであるが、この方針がどの様に達成されてきたかを次の4大都市を例として概観してみる。(図2〜5参照)                                

(1)東京区部

 明治の14年から明治41年迄の30年間に人口は82.4〜218.6万人に増加している。明治の中期以降には城下町の周辺地域で市街化がはじまり周辺区部で盛んに耕地整理が行われるようになった。昭和14年の東京都市計画概要によれば年代別には記されていないが、163地区、9,386haの耕地整理が実施されたと記されている。都市計画法制定以降に区画整理実施の検討が始められていたが、その矢先に関東大震災が発生した。復興計画の経緯は前述のとおりであるが、焼失面積の90%にあたる3,119haの区画整理が実施された。昭和6年4月現在の資料と平成9年の都市計画年報を合わせみると、大正13年に最初の組合施工の区画整理が始まり、旧法による前半(昭和6年4月まで)では44地区、1,902.2haが、旧法の後半では99地区、3,641.5haが施行認可を受けている。尚、東京で特筆すべき点は、戦災復興による区画整理事業が再度の亘って縮小され、最終的には焼失面積15,840ha の約9%(1,403.6ha)の施行が計画決定され、結果的には都知事施行の30地区、1,116.0ha、組合施工の6地区、158.0ha、昭和30年代になって都市改造事業に引き継がれた12地区、145.9haの合計48地区、1,432.0haの事業が実施された。戦後事業でのもう一つの特徴は、昭和23年の特別都市計画法により区の周辺部に指定した8,993haに及ぶ「緑地地域」において、次第に解除への要望が高まり、都は遂に昭和44年5月に「土地区画整理の施行」を条件として解除を決定した。しかし残念ながらが、その内2,698haの区画整理は実現したが、6,295haは未着手のまま放置され、その後におけるの市街化の進展により事業の実施が極めて困難になり、その実現が危ぶまれる状況に至っている。以上の様な事情もあって、区部での区画整理事業の面積は、東京都資料によると平成13年12月31日現在で14,402haとなっており、これは区部面積及び平成7年DID面積、62,122haの23%(戦前の耕地整理9,386 haを加えると38%)に相当する。(図2参照)                    

(2)大阪市

 明治14年から明治41年に人口は29.4〜122.7万人に増加。市資料(まちづくり100年の記録−大阪市の区画整理−)によると、耕地整理は2,298,24haであり、組合施工による区画整理は他の大都市と同様大正13年頃から始まり、旧法による前半(昭和6年4月まで)に44地区、2,823.5haが、旧法の後半では29地区、738.53haが施行認可を受けている。戦災復興事業は罹災面積5,049haの約70%に相当する3,536.62haが区画整理で実施されている。戦後の土地区画整理法による施行面積は759.0haであり、他の大都市と比較すると少ないが、これは大阪市の市域が小さく、比較的早い時期に市域内での人口増加が停滞し始めた為と言える。以上により平成4年段階で、区画整理が施行(施工中も含む)された面積は、耕地整理並びに宅地造成・都市改造・その他を加算すると10,802.91haとなり、これは市域面積及び平成7年面積DID面積、22,066haの49.0%の相当する。(図3参照)

(3)名古屋市

  名古屋市は日本の大都市の中で、最も区画整理が普及した都市と言われている。市資料(名古屋のまちづくり1997年)によりその経過をみると、主として戦前に実施された耕地整理は33地区で3,850haであり、組合施工による区画整理は大正13年から始まり、旧法による前半(昭和6年4月まで)に44地区、2,974.6haが、旧法の後半では57地区、2,304.4ha (2地区の公共施行、144haを含む)が施行されている。戦災復興事業は罹災面積3,859,8haの約89%に及ぶ3,528.9haが戦災復興事業で整備されている。戦後の土地区画整理法による区画整理も大きく進み、平成8年12月現在で208地区、9,442.0haに達している。これを合計すると耕地整理を含めた施行面積は22,099.9haになり、これは市域面積32,637.0haの約68%に、そして平成7年DID面積27,110haの82%に 相当する。(図4参照)                         

(4)神戸市

  神戸市においても、明治の中期から大正時代に21地区、約970haの耕地整理と、明治30年の「土地区画区画改良ニ係ル件」の制度によると想定される「新道開サク事業」による整備が概ね15地区、490haの規模で実施されている。都市計画法制定後の前期(昭和6年4月まで)における区画整理事業は11地区、520.2haが、旧法の後半では、約310ha程度が施行されたものと概算できる。戦災復興事業は他の大都市よりも積極的に取り組み、戦前に行われた耕地整理区域等も取り込み、罹災面積1,950.5ha(旧市街地3,246.5ha の約61%)を越える区域2,207.5haにおいて実施された。戦災復興後も市施行による都市改造・宅地造成、13地区833ha、都市公団施行  7地区1,041ha、組合・個人施行49地区1,243.7haが施行され、これに新たに神戸市施行による震災復興計画11地区143,2ha 等が加わっており、市資料によると、平成13年12月現在の戦後における総施行面積は91地区で5,470.6haとなっている。実際には、戦前に行われた耕地整理や組合施工の区画整理地区で戦災復興から除外されている地区も相当にあるので、現市街地における区画整理等の施行地区面積は以上の数値よりもかなり多くなっているものと想定できる。(図5参照)

 

7.区画整理の役割と今後の課題

 前節までに震災復興、戦災復興、人口急増対策、兵庫南部地震復興事業等を通じて土地区画整理事業の果たしてきた役割を説明してきたが、ここで改めて区画整理の果たすべき役割を整理し、今後の課題を展望してみたいと思う。

 

(1)数字で見る区画整理の役割

 国土交通省の資料によると、平成13年3月末現在での土地区画整理事業の着工実績は次のようになっている。

           表1 土地区画整理事業の着工実績

施行者等

着工地区数

着工面積(ha)

旧都市計画法

1,183    

49,101    

個人・共同

1,292    

21,784    

組合

5,644    

121,039    

公共団体

2,746    

133,578    

行政庁

321    

33,652    

都市公団

200    

25,854    

地域公団

20    

1,824    

地方公社

18    

778    

 

11,424    

387,610    

        (平成14年度土地区画整理事業関係予算概要より)

 

これは、1995年の人口集中地区面積1,226,000haの約32%に相当し、我が国のまちづくりが如何に土地区画整理事業に依存してきたかを示している。

また、これら地区内の平均道路率20%、平均道路幅員8メートルと仮定して道路延長を求めてみると約9万7千キロメートルとなり、全国の一般国道総延長を上回ることとなる。

公園面積については地区面積の約5%と仮定すると約19,000haで、整備済み都市公園面積約6万haのおよそ3分の1を占めていることになる。

これら事業に対する平成14年度国土交通省予算をみてみると、国費ベースで、直轄・補助一般国道予算1兆4,721億円、都市公園事業1,485億円、土地区画整理事業(道路特会)1,365億円となっており、予算規模に比較して土地区画整理事業が如何に効率よく道路や公園を整備してきたかが明らかとなる。換言すれば、土地区画整理事業を積極的に導入するかしないかは、限られた予算の中で、当該市町村における道路や公園の整備率の向上に決定的な差を作ってしまうということができよう。

次に、国土交通省資料によれば、土地区画整理事業の経済波及効果は、国や地方公共団体の公的支出に対し、ほぼ同額の保留地処分金等が事業費に付加され、更に宅地の整備と道路の新設に伴う地区内への建築投資誘発分が公的支出の約3倍、これら総投資に対する乗数効果分が公的支出の約5倍となっている。これは一般の公共事業の経済波及効果である約3倍に比して、更にその3倍の経済波及効果を生み出すということになる。ちなみに、仮に公的支出の内訳を国と地方とで半々ずつとすると、地方の公的投資に対しては20倍近い経済波及効果が地元に発生することとなる。このことは、箱モノ投資が経済波及効果を生まないで維持管理費の増大ばかりを招くことが多いことに照らして、苦労は多くとも土地区画整理事業に投資することが地方財政の健全化にとっていかに大切かを物語っている。

以上をまとめると、次のようになる。

 @ 土地区画整理事業はまちづくりの根本である。

 A 土地区画整理事業は健全な市街地整備とあわせ、道路・公園を整備する極めて効率の良い事業である。

 B 土地区画整理事業は投資効率が良く、経済の活性化に資する事業である。

 

(2)区画整理の阻害要因

 このような優れた事業手法である土地区画整理事業が、必ずしも広く国民に受け入れられていない事について、その主な理由を考えてみると次のようなことが言えよう。

 第一に、減歩に対する抵抗である。区画整理は従前の公共用地率や地形等により異なるが、かなりの減歩を土地所有者に課すこととなり、これが「土地のただ取り」と久しく言われてきた。また、一部の人達がこれを理由に反対運動をかき立てた事も事実である。甚だしくはこれが憲法違反であるともいわれた歴史もある。憲法違反でないことは昭和56年3月19日の補償金請求事件に関する最高裁判決でも明らかであるが、そのような議論を生んでしまう背景としては、わざわざ減歩を取られて道路を広くしなくても、土地は十分高い値段で売ることが出来るという土地所有者の判断によるものである。つまり不動産業界は、道路が十分整備されていなくとも売ってしまえばそれで良いという、はなはだ良識に欠けた値付けをしてきたことになる。肉骨粉が危険なことを知りつつ使用することと、道路や公園が不足していることを知りつつ家を建てて売ってしまうこととは、どれほど違っているのであろうか。

 第二は、市町村の姿勢であろう。4月1日付産経新聞「正論」に阿久悠氏が「日本というこの国が、つくづくアマチュアの論理で、アマチュアが支配している社会なのだと思ってしまう。」と書いておられるが、まちづくりのプロはどうしたのであろう。昭和40〜50年代は主な自治体に必ず区画整理の主がおられて、霞ヶ関もタジタジとなるような論陣を張っておられたが、現在では担当者を2〜3年ごとに異動させ、コンサルタントは競争入札にかけ、「区画整理の主」が何処にもいなくなってしまった。ましてや「土地区画整理六法」を読んでおられる首長さんはおられるだろうか。せめて区画整理コンサルタントを随契でお願いし、ホームドクターになってもらう必要があるのではないだろうか。

 第三は、国や都道府県の姿勢であろう。せっかく土地区画整理組合を結成して民間の力で順調に事業を進めようと思っても、国の補助金が予定通りに貰えなかったり、都道府県の無利子貸付金が予算措置されなかったりする場合がある。一方では民間資金の活用のための制度作りとか、民間への公的資金の注入などをしておきながら、何故に100年の計であるまちづくりの予算が足りないのであろうか。

 以上の他にも、区画整理制度の複雑さ、設計上の工夫の足りなさ、土地所有者の理解の不足、市街地拡大の鈍化、地価の下落など多くの阻害要因が存在する。これらについて一層究明していくことが必要である。

 

(3)区画整理手法による都市再生

 土地区画整理事業は主たる財源を都市計画道路に対する道路特会からの補助金と保留地処分金に頼っていたことと、既成市街地では建物移転補償金が莫大になることとによって、どちらかといえば新市街地の整備に適した事業であると一般的に言われてきた。しかし、本当にそうであろうか。もし仮に道路や公園が不足した密集市街地を健全な市街地に再生したいと考えたとき、区画整理以外に方法があるだろうか。そのために生まれたのが「地区整序型土地区画整理事業」や「都市再生型土地区画整理事業」である。近年では市街地再開発事業と一体となった「一体型土地区画整理事業」も誕生した。これらはいずれも既存の制度を一部法改正や運用で使いやすくしたものであるが、最大の課題である減歩を克服するための武器としては十分でない。減歩の緩和には何と言っても立体換地が有効である。それは、立体換地で権利者に建物の床を与える分だけ当該権利者に与える敷地の共有持ち分を減らすことができるからである。つまり、立体換地を多くの権利者に適用できれば、建物の床に変わった分だけ土地が生み出されるのであるから、これを公共用地や保留地にあてることによって、一般の減歩率を大幅に緩和できるのである。また、現在は認められていないが、立体換地にあてる建物の建築費を、同じ建物の余剰床の売却により生み出すことができるならば、本制度は大都市の再生にとってはなはだ都合の良い事業手法となるであろう。例えば、建物の建築コストが1uあたり15万円とすると、土地代を別として100uのマンション床が3000万円で売れる地区であれば、従前の土地権利者に与える専有床面積の2.5〜3倍に相当する建物を建てることにより廊下等の共有スペースも含んで建築コストが回収できるのである。

 地方都市にあっては必ずしも立体換地が可能であるとは限らない。それは建築コストに見合った床の処分が必ずしもできないからである。この場合は地区整序型土地区画整理事業により最小限の公共施設を整備したり、都市再生型土地区画整理事業または一体型土地区画整理事業により廃屋や閉鎖された店舗を一箇所に集めて共同ビル化したりする必要がある。あわせて公共用地の拡大や駐車場の整備を図ることができる。事業の財源としては都市再生土地区画整理事業の一般会計補助、都市計画道路の拡幅等による道路特会補助、まちづくり総合支援事業による創意工夫に対する一括補助、都市開発資金融通特別会計による貸付などが利用できる。

 都市再生を考える場合、土地区画整理事業と合わせることにより、同業種店舗を一箇所に集めたり、建物デザインを統一したり、あるいは新たな居住スペースの供給、福祉的都市機能の誘致など、今までとは別次元の世界が開けることを分かっていただきたい。つまり、まち全体の改装と新規開業ができるのである。

 

(4)土地区画整理事業の今後の課題

 既に、概ね言い尽くしてしまったが、今後の課題を整理すると次のようになる。

@ まちづくりの根本が区画整理であることの認識と啓蒙

A 市町村における区画整理コンサルタントの随契的活用

B 立体換地制度など更なる土地区画整理事業制度の改善

C 国の補助金等、財政的支援の拡大

D 既成市街地における組合土地区画整理事業の活用

E 新時代にふさわしいユニークな区画整理設計の工夫

 

 おわりに、区画整理は未だにまちづくりにおける最大の貢献者であり、全国で約2000地区、8万ヘクタールが施行中である。これは優に東京23区の面積を凌駕する面積であり、それだけの大事業が現在の日本で行われているという事実を看過することは出来ない。1ヘクタールあたりの事業費が平均3億円とすれば、総額24兆円の大プロジェクトである。平均事業期間が10年、毎年の支出が2.4兆円とすれば我が国のGDPに占める割合は実に0.5%近いシェアを有することとなり、経済誘発効果が総事業費に対して仮に5倍あれば、区画整理を順調に進めるだけで我が国のGDPに対し2〜3%の貢献があるのである。しかも、それだけの陣容と組織が現存するのであるから、これを10%伸ばすことによりGDPが0.2〜0.3%上昇するのである。これだけ大きな単一産業であることに誇りと自信を持って、広く国民に訴えていく努力を惜しまないとともに、関係者の協力と理解を求めていく熱意が必要である。

(ひろせ もりゆき・こなみ ひろひで)